「性欲がない」は悪いこと? アセクシャルを知ると、生き方の選択肢が見えてくる
「性欲がないのって、おかしいのかな?」
この問いを、自分の中で何度も繰り返してきた人は少なくないはずです。恋愛の話題が当たり前のように行き交う場所で、性的な関心が湧いてこない自分に気づいたとき、「どこか壊れているんじゃないか」と感じてしまう。そう思い込んでしまうのも無理はありません。
ただ、結論を急ぐ前に整理しておきたいことがあります。これは「足りない」のではなく、ただ「違う」だけ。違いは欠陥じゃありません。ここを取り違えると、本当は必要のない我慢を一生抱え込むことになります。
アセクシャルというあり方を、まず正確に押さえる
アセクシャル(Asexual)とは、他者に性的な欲求をほとんど、あるいはまったく感じない人のことを指します。異性愛・同性愛が「誰を好きになるか」を軸にした分類だとすれば、アセクシャルは「そもそも性的に惹かれるかどうか」という別の軸で語られる概念です。最初の入り口でここを混同すると、話がかみ合わなくなるので押さえておきたいところです。
しかも、アセクシャルとひとくくりにしても中身には幅があります。恋愛感情はあるけれど性的な関係は望まない人(ノンセクシャル)、恋愛そのものに関心が向かない人(アロマンティック)、強い信頼で結ばれた相手にだけ性的な感覚が芽生える人(デミセクシャル)。どれも別物で、グラデーションのように連続しています。「アセクシャルだから○○」と決めつけられないのは、このためです。
日本国内の調査では、人口の約1%がアセクシャルに該当するとも言われています。100人いれば1人。決して珍しい存在ではありません。法務省の人権擁護局が公開している性的マイノリティに関する人権のページでも、性的指向やジェンダーアイデンティティの多様性は基本的人権として尊重されるべきものと明記されています。内閣府の理解増進に関する取り組みでも、性的指向やジェンダーアイデンティティにかかわらず誰もが個人として尊重される社会を目指す、と方針がはっきり書かれている。理解は道半ばだとしても、公的な土台はもう動き始めています。
「性欲がない」という一言で片づけられるほど、人の感情やつながり方は単純ではない。まずこの前提に立つと、次に考えるべきことがはっきりしてきます。
「好き」が恋愛だけに縛られている、その息苦しさ
私たちは幼いころから、「好きな人できた?」と聞かれて育ちます。
中学の修学旅行の夜、同じ部屋で「誰が好きか」を順番に言い合う時間がありました。次々と名前を挙げる友人たちが、やけに大人びて見えたのを覚えています。今振り返ればただの世間話の挨拶のようなものでしたが、「誰もいない」と答えるには、妙な勇気が必要でした。(このエピソードはプライバシー配慮のため一部フェイクを含みます。)
恋愛は、いつのまにか成長の証のように扱われています。だから恋愛感情を持たない人は「まだ本気の恋を知らないだけ」と片づけられることがある。けれど、誰かを心から尊敬する、一緒にいて呼吸が楽になる、その人の幸せを本気で願う。これらはどれも立派な「好き」の形です。恋愛だけを唯一の正解とする物差しに違和感を覚える人がいて、当然なのです。
その違和感を「自分が変なんだ」と握りつぶす必要はありません。周囲の言葉や視線に削られそうになったときは、偏見への向き合い方を一度整理しておくと、自分を守る盾になります。
アセクシャルの人が結婚を考えるとき、選択肢はこう整理できる
アセクシャルだから結婚はできない、と思い込んでいる人がいます。ここは事実誤認なので、はっきり否定しておきます。恋愛や性的関係を持たなくても、深い信頼と穏やかなつながりに基づくパートナーシップは十分に成立します。問題は「できるかどうか」ではなく「どの形を選ぶか」です。
その有力な選択肢のひとつが、「友情結婚」という形です。恋愛をベースにするのではなく、生活の方針や価値観を共有できる相手と、家族として一緒に生きていく。お互いの性に対する距離感を尊重し合いながら暮らすスタイルで、アセクシャルの人と相性がいい組み方です。
実際、友情結婚専門の結婚相談所では多くの成婚実績があり、入会する女性のうち約9割がアセクシャルまたはノンセクシャルというデータを公表しているところもあります。例外的な選択というより、もうひとつの確立された婚姻の形になりつつある、というのが実感です。
ここで具体的に動き出したい人に向けて、相手探しの実務をまとめた記事があります。何から手をつけるか、プロフィールで何を伝えるか、最初の一歩で迷わないためにアセクシャルのパートナーを探す具体的な進め方を先に読んでおくと、行動が一気に現実的になります。
ただし、友情結婚が唯一の正解ではありません。あえて友情結婚を選ばないという決断も同じだけ価値があるし、ひとりで自由に生きるほうが安心という人もいる。正解はひとつではなくて、自分が落ち着ける場所を選べれば、それでいいんだと思います。
なお、子どもを希望するなら別の検討軸が加わります。年齢は物理的な制約として無視できず、受け身でいる時間のコストは年齢が上がるほど大きくなる。アプリ登録から対面、入籍、その先の妊活まで、最短でも1〜2年を見込んでスケジュールを逆算するのが現実的です。ほしいなら早めに動く。子どもを持たない選択も等しく尊重されるべきですが、希望するなら時間軸から逆算する視点は持っておいて損はありません。
性欲がないことを理由に、無理を続けなくていい
恋愛が「当然」とされる場所では、自分のペースを守り抜くのに想像以上のエネルギーがいります。「相手をがっかりさせたくない」「恋愛結婚の形に合わせなきゃ」と、性や恋愛を無理やり受け入れようとして消耗してしまう人もいる。
けれど、誰かに合わせ続けてすり減るより、自分が本当に安心できる距離感やルールで人とつながったほうが、結果として長く穏やかな関係を保てます。我慢の上に築いた関係は、どこかで必ず歪む。最初に距離感をすり合わせておくのは、相手のためでもあり自分のためでもあります。
性的な欲求がないことは、直すべき欠点ではなく、その人の輪郭の一部です。否定をやめて受け入れたところから、ようやく自分に合った関係が見えてきます。
恋愛をしなくても、人生はちゃんと豊かに作れる
アセクシャルを正面から描く作品も増えてきました。NHKドラマ「恋せぬふたり」では、アセクシャルの二人が始めた同居生活がリアルに描かれ、大きな反響を呼びました。映画「そばかす」でも、アセクシャルの女性が主人公として登場します。こうした作品の存在は、「恋愛しない生き方」が社会の語彙に少しずつ加わってきている証拠です。
「愛」は恋愛だけを指す言葉ではありません。相手を理解しようとすること、支え合おうとすること、日常のなかでふと「この人といてよかった」と思える瞬間。そのどれもが立派な愛の形です。恋をしなくても、結婚という形を取らなくても、人生は欠けたりしません。完成された人生の作り方は、一通りではないということです。
他人を否定しないことが、結局は自分を守る戦略になる
「自分はアセクシャルだから、誰とも関係を築けない」と感じる人もいれば、「アセクシャルだけど、この相手とは一緒にいたい」と思う人もいます。どちらも間違いではありません。ただ、自分の感覚がすべての人の正解とは限らない、という一点は忘れずにいたいところです。
SNSでは「アセクシャルの自分でも、ゲイやレズビアンの人となら一緒に生きられるかもしれない」といった声も見かけます。LGBTQ+の当事者が友情結婚を選ぶケースについては「LGBTQ+当事者のための友情結婚ガイド」で掘り下げています。指向は違っても、自分の人生を真剣に生きているという点で立場は同じです。
ここは戦略として考えるとわかりやすい。誰かの「恋愛したい」という願いを「自分はそう思わないから」と切り捨ててしまえば、あなたの「恋愛しなくてもいい」という生き方も、いつか同じ論法で否定される番が回ってきます。逆に、相手の望みをそのまま認めておけば、自分の望みも守られる。他人を尊重することは、長い目で見て自分の居場所を確保する一番堅実な手です。
望みが違うのは当たり前で、違うからこそ社会は厚みを持ちます。その違いを互いにそのまま受け止め合えるほうが、誰にとっても呼吸がしやすい。認められたいなら、まず認める。アセクシャルであっても恋愛をする人であっても、この順序は変わりません。
最後に
MITRAは友情結婚をきっかけに生まれたサービスですが、「友情結婚をしてほしい」と言いたいわけではありません。恋愛してもいいし、しなくてもいい。結婚という形を取っても、取らなくてもいい。性欲がない人も、恋愛を望まない人も、それでも誰かと一緒に生きたい人も、自分の感覚を否定されずにいられる。そういう場所を保つことに、運営として責任を持っているつもりです。プライバシーポリシーを整えているのも、その一環です。
他人の物差しに合わせるより、自分が落ち着ける場所を自分で選ぶ。アセクシャルかどうかに関係なく、結局はそこに尽きると思います。